2Feb
札内川十の沢大雪崩事故~特異な遭難事故を振り返る
過去に起こった特異な山岳遭難を検証していきます。
今回は昭和40年(1965年)3月14日、日高山脈札内川十の沢で発生した、大雪崩によって北大生6名が犠牲となった遭難事故を振り返ります。
事故の概要
登山計画
北大山岳部員沢田パーティー6名による登山計画は以下のとおりです。
日時
昭和40年(1965年)3月11日~3月24日(行動9日、予備日5日)
行程
上札内コイカク事業所泊(C1)~札内川泊(C2)~札内川十の沢泊(C3)~ナメワッカ分岐泊(C4)~カムイエクウチカウシ山往復、ナメワッカ分岐泊(C5)~神威岳泊(C6)~幌尻岳往復、神威岳泊(C7)~戸蔦別川泊(C8)~帯広市八千代下山
メンバー
沢田義一さん(4年生 農学部畜産科・リーダー)
中川昭三さん(4年生 文学部国文学科・サブリーダー)
橋本甲午さん(4年生 農学部農学科)
松井作頼さん(1年生 教養学部文類)
坂井丈寛さん(1年生 教養学部水産類)
田中康子さん(1年生 教養学部理類)
なお、4年生の沢田リーダー、中川さん、橋本さんの3名は、それぞれ就職先が決まっており、最終下山日の翌日である3月25日、卒業式に出席予定であった。
事故の時系列
3月11日 上札内から入山。コイカク事業所泊。
3月12日 札内川八ノ沢付近泊。
3月13日 入山して3日目、パーティーは札内川十の沢出合い付近(札内川本流左岸標高950m付近のテラス状地形)に雪洞を掘ることとし、お昼頃雪洞を掘り終えた。同日の田中さんのメモには、「・・一日中の降雪でナダレが心配。」と書いてあった。
3月14日 午前2時ころ雪崩が発生、デブリ(堆積した雪崩)が雪洞の入口から進入して雪洞内を埋め、沢田リーダー以外のメンバー5名は即死状態と推定。沢田リーダーは口の周りに隙間があったおかげで、即死はまぬがれた。その後沢田リーダーは、約4日間ナタを使って穴を掘り進め、地上に出ようと試みる。
3月17日 沢田リーダーは地形図2枚の裏に事故の顛末と遺書を書き残し、以後、凍死したものと推定。
3月26日 先発捜索隊が出発。
3月29日 第1次捜索隊が出発。
5月14日 第2次捜索隊出発、いずれも手がかりなし。
6月 1日 第3次捜索開始。
6月13日 午後3時10分、沢田リーダーの遺体発見。
6月17日 午後、雪洞と5遺体発見。午後4時、遺体の搬送が困難だったため、沢田リーダーの遺体を現場で荼毘にふす。
6月18日 午後6時、5遺体を現場で荼毘にふす。
事故現場の地形図と雪崩の様子
この大雪崩は大雪によって札内岳分岐付近の国境稜線に発達した雪庇が崩壊し、札内岳分岐の南東斜面を中心とした、面発生型の巨大な表層雪崩が発生したものと推定されています。
十の沢付近のデブリは、長さ約1km、幅30~100m、平均の深さは約10mに達し、沢を完全に埋めていました。
北大低温科学研究所の調査では、この雪崩は国内最大級であり、雪崩が発生した稜線からデブリ末端までの総延長は約3km、標高差は約900m、札内川本流に堆積したデブリの量は約40万トンで、爆風(なだれ風)によって高い場所では80mの高さにある樹木をなぎ倒し、倒木の中には直径70cm、樹齢110年に及ぶものがありました。(※同場所では少なくとも110年間、大木を倒すような大雪崩が発生していないことを表している)
この雪崩の規模を表すポテンシャルマグニチュード(雪崩の位置エネルギーと質量で算出される雪崩のエネルギー)はM9.5で、これは過去最大だった大正7年の新潟県三俣村で発生した大雪崩(M7.9)の約50倍の破壊力であり、常識を超えた大雪崩であったとされています。
遺体発見時の状況
遺体発見現場の概略の状況、及び見取り図は下記のとおりです。
沢田リーダーの遺体は雪面から深さ約1mにあった雪の穴の中(直径約2m)で、沢側(西側)に頭を向け、うつ伏せ状態で発見されました。
保存状態は良く、顔は判別できました。
外傷、骨折などはなく、両手足の凍傷などの状態から死因は凍死と判断されました。
付近にはナタ、懐中電灯、食べ残しの非常食、きちんとたたまれた寝袋、エアーマットなどがあり、胸ポケットには、5万分の1地形図2枚に書かれた遺書入っており、水濡れしないようポリ袋に納められていました。
沢田リーダーの発見位置の約1m下には、寝袋にシュラフカバーを重ね、腰から下をキスリングに入れたままの(当時、就寝時の防寒対策として、腰から下をキスリング(大型ザック)に入れることがあった)5名のメンバーの遺体が横1列に並んだ状態で発見されました。
5名の遺体の表面は厚さ5cmの氷で覆われ、保存状態は良好でしたが、橋本さん以外は顔の判別が困難な状態でした。
5名ともに胸部は変形し、腹部は陥没しており、中川さんはろっ骨を骨折していました。
死因は5名とも、胸部圧迫による窒息死と判断されました。
雪洞は天井が破壊され、発見されたストーブのノズルが曲がっていたことなどから、雪洞に進入してきた雪崩の圧力は、相当大きかったものと推定されます。
偶然、口の周辺に隙間があったことで、即死をまぬがれた沢田リーダーはナタを使って脱出を試みましたが、他の5名よりも約1m上で発見されていることから、地上に向かって掘り進んでいたことがわかります。
「雪の遺書」とも言われる、沢田リーダーの遺書の全文は当時、新聞などで大きく報じられ、日本中に衝撃を与えました。
非常に悲惨な事故ですが、事故の教訓やリーダーの責任感など、語り継がれなければならない内容だと思いますので、全文を掲載したいと思います。
雪洞を掘った位置は適切だったのか
北大山岳部では伝統的に沢を詰めて尾根に登る沢詰め方式をとっていたようです。
沢筋は雪崩のリスクもありますが、尾根歩きよりも楽で、比較的危険が少ないという理由です。
雪崩の状況に注意しながら沢を詰めるということになりますが、十の沢では過去に事故が起きていないということから、この場所に雪洞を作ったようです。
また、雪洞は沢から約15mほど上がったテラス状の地形に作られておりますが、このことは、万一、沢に雪崩が襲っても雪洞が埋没しないよう安全策をとっていたということになります。
この雪崩が常識を超える規模であったことを考えると、沢田パーティーが事故を予見し回避できた可能性はほぼなく、事故は不可抗力であったという見方が妥当ではないかと思います。
事故当時の天気図
事故発生5時間前の昭和40年3月13日午後9時の天気図を見てみます。
北海道南岸に発達した低気圧が通過中です。天気図からは北海道付近は北東または東寄りの強風が吹いていたと思われ、北海道太平洋岸や日高では風雪が強かったのではないかと推測します。
3月13日、十の沢で沢田パーティーの雪洞を目撃した北大山スキー部パーティーの話では3月13日から14日にかけては無風で降雪が多かったということです。(北大山スキー部の目撃情報が沢田パーティー発見の決め手となっています)
また、この年の春の日高の積雪は例年より多かったという証言があり、神威岳~エサオマ~コイカク間の尾根筋では、腰まで雪に埋まるほどで、雪庇は大きいもので40mも張りだしている場所もあったといいます。
雪崩の恐さを知る
雪山のルートを決める時は、過去に雪崩が発生していない場所を選ぶのが基本ですが、基本どおりの行動をしていても、雪崩の発生は予測がつきにくく、十分に安全策をとっていたとしても、時には想定外の場所にも雪崩が到達するということをこの事故は教えてくれています。
事故発生後、仲間を失いながらもひとり暗い雪の下で脱出を試みながら、冷静に状況を書き記した沢田リーダー。
北海道中札内村ピョウタンの滝にひっそりと建つ日高山脈山岳センターの展示室には、発見された沢田パーティーの遺品や遺書のコピーなどが展示されています。
事故から半世紀以上経った令和、記憶は風化していない
令和2年8月、筆者は札内川八ノ沢出合で、今時の流行りではない登山服を着た老紳士が、入念に地形図をチェックしているところに出会いました。
この方は、十の沢の事故で亡くなられた友人のためにひとりで慰霊登山に来たとのことで、「もう来れるかどうかわからないので、今のうちに行っておこうと思いまして・・。」と言いながら、ゆっくりとした足取りで十の沢方面へと向かわれました。
このような方がまだ現役で、慰霊に来られていることに、驚きと尊敬の念を抱かざるを得ません。
十の沢の事故は決して昔話などではないのだなとあらためて思いました。
参考文献:ふるさと叢書第1号 吉田勇治著 鎮魂歌 ああ、十の沢(1965年札内川大なだれ遭難記録)、北大低温科学研究所 1965年札内川なだれ調査報告
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