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元山岳部部長の登山講座

過去の遭難に学ぶー大雪山旭岳11名遭難 函館学芸大

過去に起きた遭難事故を検証していきます。

今回は、昭和37年(1962年)12月30日から1月1日にかけて、大雪山旭岳で北海道学芸大学函館分校(現北海道教育大学函館校)山岳部員11名が遭難し、リーダーを除くメンバー10名が死亡した事故を紹介します。




事故の概要

この遭難事故は、日本山岳遭難史上最大級と言われるわりには、一般的にはあまり知られていません。

いわゆる「さんぱち豪雪」と言われる、昭和37年12月から昭和38年2月にかけての全国的な大雪被害に中で発生した遭難事故なのですが、昭和38年1月4日に発生した薬師岳愛知大学山岳部員遭難事故(13名死亡)の影に隠れる形となり、全国的にあまり大きく報道されなかったために、一般的な認知度が低いままとなっています。

当時、マスコミの取材から関係者を守るため大学側が緘口令を敷いたとも言われ、その影響もあってか、平成18年(2006年)にこの事故のノンフィクション小説「凍れる(しばれる)いのち」が出版されるまで、一般には事故の詳細がわかりづらいままとなっていました。

検証記事を書くに当たり、「凍れる(しばれる)いのち 川嶋康男著 柏艪舎」及び「旭岳遭難報告書 北海道学芸大学函館分校山岳部」を参考としました。

旭岳遭難報告書 北海道学芸大学函館分校山岳部


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実際の行動記録は以下のとおりです。

メンバー

A班(サポート隊)
・菊地夷彦さん(リーダー、4年)
・新浜英博さん(サブリーダー、3年)
・田中修一さん(2年)
・山本雄三さん(2年)
・池田光雄さん(2年)

B班(本隊)
・野呂幸司さん(チーフリーダー兼B班リーダー、4年、生存者
・小林 功さん(サブリーダー、3年)
・逢見徳美さん(2年)
・丸山欣美さん(2年)
・清水 司さん(2年)
・田崎和彦さん(1年)

 

山行予定 12月23日~1月4日
・A班 12/23函館出発~12/24勇駒別温泉(旭岳温泉)学芸大ヒュッテ~旭岳石室~旭岳東側にベースキャンプ設営~愛別岳往復~12/28白雲岳石室、B班と合流、訓練後勇駒別温泉(旭岳温泉)下山予定
・B班 12/23函館出発~12/24天人峡から入山、滝見台~化雲岳~五色ケ原~忠別岳、高根ケ原~12/28白雲岳石室、A班と合流、訓練後勇駒別温泉(旭岳温泉)下山予定

図1 函館学芸大パーティー全行程

12月24日

(A班の行動)

12:00 新浜サブリーダー、池田さん、勇駒別温泉(旭岳温泉)学芸大ヒュッテ到着。

15:30 スキー訓練のため、先に現地入りしていた、菊地リーダー、田中さん、山本さん、旭岳石室に荷物を荷揚げ後、学芸大ヒュッテ到着。A班5名合流。
山本さん、少々下痢気味。16時にラジオの気象通報で天気図をとるが、明日の天気は良好と判断。

(B班の行動)

11:40 天人峡温泉から入山。天気、粉雪。

15:45 滝見台(919m)手前で、テント設営(C1)
小林サブリーダー、あわ(新雪の降雪による表層雪崩)により50m落ちるが無事。
野呂リーダー、丸山さん、第一公園付近までスキー偵察。

20:18 就寝

12月25日

(A班の行動)

03:00 起床、気温ー13℃。 星が出ている。

05:25 出発。天気、小雪、風なし。

06:35 天女ケ原、ヘッドランプ消灯。

10:10 旭岳石室着。菊地リーダー、田中さん、山本さんで荷揚げのため旭岳を目指す。新浜サブリーダー、池田さんでフリコ沢までルート標識旗を設置しに行く。

13:10 新浜サブリーダー、池田さん、旭岳石室着。

15:15 菊地リーダー、田中さん、山本さん、旭岳石室着(ガスのため、荷物は稜線にデポして引き返し)。学芸大旭川分校パーティーも旭岳石室泊。

(B班の行動)

02:02 起床。5時の気温ー12℃。

06:00 出発。

10:00 第一公園下のコルで昼食。気温ー10℃。

15:30 1360m三角点付近(第一公園)にテント設営(C2)

20:30 就寝。田崎さん、清水さん、丸山さんがラッセルで消耗している様子。

12月26日

(A班の行動)

04:00 起床。 気温ー12℃、雪がちらつく。

07:45 出発。視界良好。

10:45 前日稜線にデポした荷物を回収後、旭岳山頂到着。山頂はガスがかかっている。

13:15 学芸大旭川分校パーティーと出会う。

13:40 松田岳と荒井岳の中間のコルにベースキャンプ設営(BC)。風弱く、気温ー21℃。

22:30 就寝。星空。

(B班の行動)

03:00 起床。3時半の気温ー30℃。全員疲労、寒さで寝不足。

07:35 出発。(寒さと疲労で出発遅れる)

12:30 小化雲岳。

14:25 化雲岳。

15:10 神遊びの庭付近でテント設営(C3)。視界良好。

21:00 就寝。星空。20時の気温ー21℃。

12月27日

(A班の行動)

03:30 起床。気温ー21℃。

07:35 出発。快晴。

08:00 間宮岳。

09:25 北鎮岳。

10:00 鋸岳。気温ー8℃。

11:00 比布岳。

12:20 愛別岳。曇り。風強まる。比布岳山頂付近が吹雪いている。風が南に変わる。

15:20 間宮岳。吹雪でホワイトアウト。

15:40 ベースキャンプ到着。風避けブロックを積み直す。

21:00 就寝。北風に変わる。夜中に風強まる。

(B班の行動)

03:00 起床。ー20℃。

08:10 出発。(寒さのため出発を遅らせる)

09:02 五色ケ原山(=五色岳?)。

11:00 忠別岳南コルで北大パーティーとすれ違う。

12:20 忠別岳。学芸大旭川分校サポート隊とすれ違う。A班がベースキャンプを設営したとの情報を得る。

12:45 忠別岳北コルで昼食。学芸大旭川分校本隊とすれ違う。

13:15 出発。風強まり、雪を伴う。

13:30 忠別沼。

14:03 平ケ岳南コル(キャンプ予定地)。ブリザード。

14:30 平ケ岳。視界5m。

15:00 メンバーが消耗気味なので、稜線を少し左に下りたところで(高根ケ原)、テント設営(C4)

12月28日(白雲岳でA,B班合流予定日)

(A班の行動)

01:30 強風と地吹雪。テント内の気温ー16℃。

08:00 ベースキャンプで停滞決定。

12:40 昼食。風弱まる。

14:40 天気晴れる。

16:00 ラジオ気象通報、天気図作成。嵐が来ると予測。

17:30 夕食。風が止む。星空。

20:00 就寝。

(B班の行動)

03:00 起床。ブリザードのため待機。

11:00 上空が明るくなったので出発。出発後ガスが晴れる。

12:55 白雲岳石室到着(C5)。(学芸大旭川分校サポート隊が先着していた。)白雲岳の斜面でスキー訓練実施。

16:00 ラジオ気象通報、天気図作成。中国大陸に前線を伴う低気圧が北東進中を確認。

19:55 就寝。風邪をひいたメンバー(清水さんと思われる)がいる。

12月29日

(A班の行動)

03:00 起床。気温ー18℃。風が少し吹いている。田中さん、寒さで熟睡出来なかった。

07:10 出発。晴れ。

07:50 北海岳南コル付近で、B班と無線が通じる。

08:30 白雲岳外輪でA,B班合流。

(B班の行動)

04:00 起床。星空。その後、学芸大旭川分校パーティーが先に出発。

07:10 出発。快晴。

07:50 白雲岳の肩付近でA班と無線が通じる。

08:30 白雲岳外輪でA,B班合流。

(A,B班合流後の行動)

08:30 A,B班合流、リーダー会議及び白雲岳北東斜面で氷雪技術訓練実施。
野呂リーダー:低気圧が近づいているので訓練後今日中に旭岳石室まで下山したい。
菊地リーダー:A班は体力的に厳しいメンバーがいるので下山は無理。食料は十分にある。
野呂リーダー:菊地リーダーの意見で下山の決意がぶれてしまう。

09:40 氷雪技術訓練終了。

10:00 白雲岳山頂。快晴。

10:10~11:00 山頂北斜面で岩登り訓練、氷雪技術訓練実施。

11:20 下山開始。風が強くなる。

12:40 ベースキャンプ到着(C6)。B班テント設営。A班メンバーの疲労が目立つ。

13:30 B班テント設営完了。元気なメンバーだけでスキー訓練実施。訓練中、天気回復し快晴となる。

16:00 スキー訓練終了、西空に厚い雲がかかる。

20:00 就寝。(野呂リーダー、菊地リーダー、田中さん以外)

22:00 ラジオ気象通報、天気図作成。朝鮮半島で低気圧が二つ玉となり北東進している。明日の行動は7時に状況を見て決定することにする。

星空、強風。あまり寒くない。

12月30日

05:20 起床。時々生暖かい風が吹く。

06:00 リーダー会議。
野呂リーダー:旭岳石室まで強行下山したいが、荒れると旭岳は手強い。ビバークすることになるかも。
小林サブリーダー:行けるところまで行き、旭岳石室に少しでも近づきたい。
菊地リーダー:旭岳石室に向けて出発したい、早く帰りたい。

結論:旭岳石室に少しでも近づき、状況によってはビバークすることにする。

07:00 ラジオで強風注意報が発令し、前線が近づくのを確認。停滞を決定するが、現在地は雪が少ないので、学芸大旭川分校が泊まっていた熊ケ岳の台地にキャンプを移動することにする。

風は強くなり、西から南に変わる。

09:00 出発。(朝食時、A班のラジウス(=携帯コンロ)の不調で出発遅れる)

09:20 荒井岳。

09:30 間宮岳。猛烈な強風と雪。清水さん遅れ出す。

10:00 熊ケ岳の台地到着。風の通り道のため、テントの設営が困難。リーダー会議。
野呂リーダー:テントは無理なので雪洞にしたい。昨日、間宮岳~北海岳間の稜線に大きな雪庇があったがそこはどうか。
小林サブリーダー:旭岳石室に近づきたい。
新浜サブリーダー:旭岳石室に近づきたい。
菊地リーダー:旭岳北東尾根か旭岳と後旭岳とのコルは雪が深かった。

結論:旭岳石室に近づきたいので、旭岳北東尾根か旭岳と後旭岳とのコルに雪洞を掘ることにする。

11:00 出発。視界なし。ブリザードが激しくなる。

11:40 後旭岳とのコルに到着。野呂リーダー、菊地リーダー、小林サブリーダーで雪洞適地を偵察するが、風の通り道で雪洞建設には適さない。リーダー会議で旭岳石室まで下山することにする。

12:30 小休止、リーダー会議。
菊地リーダー:池田が相当消耗している。旭岳石室まで行くのか?どこかで雪洞を掘るしかない。
小林サブリーダー:元気なうちに旭岳石室まで下山したらどうか。
新浜サブリーダー:旭岳石室まで下山できればいいが。
山本さん、田中さん:旭岳石室まで下山すべき。
野呂リーダー:この吹雪では限界。雪洞で1泊して明日天気を見て旭岳石室まで下山しよう。

結論:ここに雪洞を掘ってビバークすることにする。

13:00 旭岳山頂から北北東180m、標高2200m付近(実際には東北東180m、標高2220m付近と思われる)で雪洞を掘る(C7)。
斜面にL字型の雪洞2個を作ろうとしたが、掘っている時に中でつながったためL字型の雪洞1個とし、緩斜面で積雪が3mと十分ではなかったため、入口にセミイグルーを作った。
雪質は表層50cmが粉雪、その下は硬雪が3層になっていた。雪洞は全長4~4.5m、奥行き2~2.3m、高さ1.3~1.4m、入口の通路1m、入口のセミイグルーは直径1.5m、高さ1.5m。
入口の垂れ幕にA班テントの内張を使用、雪洞内の床にB班のテントを敷き、その上に各自のエアーマットを敷いた。
イグルー内にアイゼン、わかん、オーバーシューズを収納、スキーとストックは外(入口の左)に立てた。

16:00前 雪洞完成。ラジオ気象通報、天気図作成。北海道上空に低気圧があり東北東40km/hで通過中、一両日中に天気が回復すると予想。遅い昼食を取る。

12/30 20:00 雪洞崩壊時の状況。

20:00 夕食作り(逢見さん、池田さんが担当)と平行し、雪洞の一番奥にいるものから順番に着替える(奥から清水さん、田中さん、菊地リーダー、小林サブリーダー、野呂リーダー、新浜サブリーダー、山本さん、丸山さん、田崎さん、逢見さん、池田さんの順)。
5人目の野呂リーダーが着替え終わった時、突然ゴーという音が聞こえ、清水さんがいた付近の天井に亀裂が入り、室内に雪と風が入ってくる

急いでエアーマットで亀裂をふさいだが間に合わず、30~40分で雪洞の天井がなくなってしまう。
テントを張ろうとしたが、風でテントがゆがみ、テントには9名(野呂リーダー、菊地リーダー以外)しか入れなかった。
一度9名をテントから出し、テントを張り直そうとしたが、テントは雪に埋まって縮まり3名しか入れなくなった。
丸山さん、池田さん、逢見さんをテントに入れるが、池田さんが息が苦しいと訴えたので、ピッケルでテントを切り、全員外に出す。
清水さんが片足しか靴を履いていないことに気づき、ナップサックで足を包み、野呂リーダーが清水さんの足を股に挟んで保温する。

22:00ころ 風が止んだのでテントを掘り起こそうとしたが、雪が固まり、掘り起こすことができない。ザックや装備品も行方がわからない。菊地リーダーがシュラフをかぶり、寒気がすると言う。冷たい風が吹き出し、風は北に変わった。テントや装備品を諦め、風雪の中、車座になり山の歌を歌ったりしながら朝まで過ごす。

12月31日

明るくなったので、旭岳石室に向けて出発する。風雪で視界は効かない。

雪洞の目印にスキーを立てる。手袋が凍りつきアイゼンを着けるのが困難なので、全員アイゼンは装着しなかった。

野呂リーダー、小林サブリーダー、田中さん、丸山さん、清水さん、池田さん、菊地リーダー、田崎さん、山本さん、逢見さん、新浜サブリーダーの順に歩き出す。アイゼンを履いていないので、先頭の野呂リーダーがピッケルで雪面をカッティングして足の置き場を作りながら歩く。

07:00過ぎ A班が残したペナント(道迷い防止ために雪面に刺した旗のついた竹竿)を探しながら、旭岳山頂到着。池田さんが放心し、「野呂さん、もう終わりだね。カラスが飛んでるよ・・。」とつぶやく。
新浜サブリーダーが池田さんを支えて歩くことにする。
夏道の指導杭2本を見つけるが、ブリザードでA班がつけたペナントが見つからず、噴火口づたいに(右に)進むと、大きな四角い岩(金庫岩?)を右に見る。稜線の雪庇の下に回り込んだ直後、「アッ」いう叫び声がしたので、野呂リーダーが振り返ると清水さんがうつ伏せのまま滑落していった。斜め上に四角い大きな岩が見えた。
野呂リーダーは菊地リーダーに「皆ここから動くな、菊地、頼むぞ」と言い残し、斜面をグリセード(=登山靴のままスキーのように斜面を滑走する)で下りながら、清水さんを探しに行った。200~250m下った岩の前で清水さんが止まっていた。声をかけたが応答がなく絶命したようなので、岩の上に清水さんを上げ、清水さんのピッケルを立てて稜線を登り返した。
40分~1時間して稜線に戻ると、新浜サブリーダー、逢見さん、山本さん、池田さん、田崎さんの5名がいなくなっていた。
菊地リーダーは「さっきまでいたんだけど」、小林サブリーダーは「先に下ったのではないか」という。
下山を再開する。
小林サブリーダーが目出し帽をまくり上げ、頬に黒い斑点(凍傷?)ができている。田中さんと小林サブリーダーは靴紐を引きずって歩いている。
視界はなく、いくら下っても旭岳石室付近の地形は現れず、迷ったことに気づく。
登り返してルートを確認しようとしたが、菊地リーダーが、「野呂、俺はもう目が見えないよ。手も足もなんだか変なんだ・・。」と訴えたので、雪洞を掘って天気が回復するまで避難することにする。
野呂リーダーと小林サブリーダーがピッケルを使って小さな雪洞を掘り、小林サブリーダーと丸山さんを雪洞に入れる。
その隣りに二つ目の雪洞を掘っている時、菊地リーダーが「野呂、お前は助かると思う・・。助かったらお袋によろしく伝えてくれ・・。」と叫ぶ。
二つ目の雪洞に菊地リーダーを入れ、田中さんが菊地リーダーを見る。
丸山さんがいつの間にか雪洞から這い出て、素手になり、もがいている。丸山さんの手は蝋色で腫れあがり、黄色い水泡が出来ている。
野呂リーダーは丸山さんを雪洞に入れるが、雪洞にいた小林サブリーダーはうつ伏せになり昏睡状態になっている。
野呂リーダーは田中さんから「野呂さんすぐ来てくれ。菊地さんが・・。」と聞き、隣りの雪洞を見てみると、菊地リーダーは頭を雪洞に入れ、足を入口に出したままうつ伏せで「お母さん、お母さん・・・。」と親や兄弟の名前を叫んでいた。
野呂リーダーは旭岳石室を探してから、彼らを迎えに来ることにし、雪洞の上と下に目印のストックを1本ずつ立てて、田中さんと二人で出発する。
野呂リーダーは足に痛みがあり、足がころころして歩行が困難になる。
視界は効かなかったが、1時間以上歩いた時、一瞬雲が切れ、田中さんが北東に煙が見えた(旭岳石室周辺の噴煙?)と言う。少し行き過ぎたかと思う。
ハイ松帯が現れる。
いくら歩いても旭岳石室の地形は現れない。雲間に天女ケ原と思われるタンネの林(針葉樹林帯)が見えたので、南西に向かえば勇駒別温泉に下山出来ると思い、下降を始める。
田中さんのスピードが上がり、野呂リーダーは追いつかなくなる。
針葉樹林帯に出る。
田中さんは段々左にそれて行く(忠別川方面に入ってしまう)。
田中さんに追いつく。
暗くなってきたので、松の根本に松の葉を敷き、ビバークする。たき火をしようとしたがマッチが湿って火がつかなかった。星空が見えていた。

1月1日

田中さんの「寒い、寒い、野呂さん歩こう」と言う声で、野呂リーダーは起きるが、辺りはまだ暗い。
歩くことにし、野呂リーダーは屈伸運動を始めるが、田中さんが「灯りが見える、温泉の灯りだ。すぐそこじゃないか・・。」と言い、2,3歩、歩き出したが倒れてしまう。
野呂リーダーは田中さんを背負って歩き出すが、田中さんがずり落ちる。
野呂リーダーが田中さんを這わせて引っ張るが、いつの間にか田中さんは素手になってる。
野呂リーダーは声をかけ揺り動かすが、田中さんは動かなくなり昏睡状態になる。
野呂リーダーは田中さんのそばにピッケルを立て、下山を急ぐ。
青白い丸いものがついて来たが、夜が明け始めると消えていた。
天女ケ原と思われる方向へ下る。太陽が昇り青空となる。
このまま下れば天人峡と勇駒別温泉をつなぐ送電線に当たると思い南西へ下る。
午後になり、電柱を発見したので、送電線沿いに勇駒別温泉を目指す。
赤い屋根が見えて、湯沼を渡る。
温泉宿の人に声をかけられた後、スキー客に手を貸してもらい、学芸大の研究所に向かう。

13:20 学芸大研究所到着。電話で警察と大学に連絡してもらう。本日旭岳石室まで行った人の話では石室にはスキー5台と食料があり、新浜サブリーダー達5名の行方は不明のまま。野呂リーダーは東川町立病院に収容。

15:30 白雲荘の管理人らが野呂リーダーのトレールをたどり、田中さんの捜索に出発する。約2時間捜索するも手がかりなし。

1月2日

第一次捜索開始。

10:40 旭岳石室から南南東約2km(実際には南南東1.6km付近と思われる)、標高1450mで田中さんの遺体発見。(赤エゾ松下のビバーク跡から約30m這い出した跡あり。)

1月3日 

手がかりなし。

1月4日

09:50 金庫岩から東側約250mの黒岩から更に南斜面200m下の地点(標高2100m付近と思われる)で清水さんのピッケル、その下方20mに右片方のアイゼンを発見。清水さんは発見できず。

13:45 夏の水場(現在の後旭キャンプ指定地付近)と旭岳山頂を結ぶ線上(旭岳の東北東)、旭岳山頂から約270mで山本さんの遺体発見(標高2180m付近と思われる)。その上方30mで逢見さんの遺体発見(標高2200m付近と思われる)。その上方60mで雪洞跡発見(標高2220m付近と思われる)。

1月5日

09:45 雪洞跡の雪の中で、シュラフを上から被った田崎さんの遺体を発見。

09:50 雪洞跡の雪の中で、破損したテントに足を入れた状態の池田さんの遺体発見。

11:40 金庫岩とトムラウシ山を結ぶ線上(金庫岩のほぼ真南)の金庫岩下方東寄り約400mで新浜サブリーダーの遺体発見(標高2000m付近と思われる)。

1月9日

一旦、捜索打ち切り。

3月2日

野呂リーダー、凍傷により、両足ショパール関節から切断。

5月1日

第二次捜索開始。

6月14日

二つの雪洞の目印のストック発見。

6月16日

10:10 地獄谷三股から40m下の左岸で清水さんの遺体発見(標高2000m付近と思われる)。

6月22日

10:40 アイシポップD沢上で小林サブリーダーの遺体発見(標高1850m付近と思われる)。

7月4日

10:33 アイシポップD沢上、小林サブリーダー発見場所から斜め下7mの雪の中で丸山さんの遺体発見。

7月6日

09:18 アイシポップD沢上、丸山さん発見場所から下方19mの雪の中で菊地リーダーの遺体発見。



事故現場の地形図

図1 函館学芸大パーティー全行程

図1はこの記事の冒頭にもあった、全行程の概念図と同じものです。

A班はサポート隊なので比較的短い行程ですが、B班(本隊)の行程は最短でも6泊7日程度はかかる長大コースであることがわかります。

図2 12/28~12/30の行程

図2は、12月29日に白雲岳石室を出発してから、12月30日に遭難するまでの行程です。

29日は当初旭岳石室まで一気に下山する予定が、メンバーの体調や訓練消化などの理由から、ベースキャンプ(C6)泊まりとなっています。

翌30日は、荒天避難の判断をしたわけですが、熊ケ岳、旭岳ー後旭岳コルと逡巡しながらC7に雪洞を掘り、ビバークすることになります。

少しでも旭岳石室に近づきたいという心理が働いていたようですが、地形図を見ると、C6から前進するのではなく、白雲岳石室に一旦戻り、低気圧をやり過ごすことも選択にあったのではないか思います。

図3 12/30~1/1の行程

図3は12月30日にC7の雪洞が崩壊し、メンバーを失いながらも野呂リーダーが生還したトレースです。

金庫岩、ニセ金庫岩から先のルートは、夏山でも視界不良時には道迷いを起こす有名なポイントで、多くの登山者が旭岳南西斜面に吸い込まれ、帰らぬ人となっています。

GPSがない時代、要所要所に目印のデポ旗を設置したとしても、暴風雪の中で正しいルートをたどることは非常に困難なことです。

図4 12/30~12/31の行程(拡大図)

図4は図3の拡大図です。

ニセ金庫岩から松の木の下のビバーク地点までのトレースですが、報告書に詳しい記述がないため、便宜的に南西方向に真っ直ぐ描いていますが、実際には蛇行しながら歩いていたのかも知れません。

謎が残る。清水部員の滑落場所と途中でいなくなった5名の足取り

清水さんの発見場所は地獄谷(旭岳西方の爆裂火口)の底なので、野呂リーダーの記憶と合致しますが、野呂リーダーが清水さんの傍らに刺したとされるピッケルが、1月4日旭岳南斜面(標高2100m付近)で発見されています。(図4参照)

地図で見ると2点間は約700mも離れており、ピッケルが谷を駆け上がって南斜面に移動するわけもなく、遺体が移動するわけもありません。

あるとすれば、野呂リーダーがピッケルを刺したというのが記憶違いだったということになりますが、報告書によると函館学芸大山岳部の顧問が以下のように推理しています。

「野呂リーダーは滑落場所が地獄谷だと思い込んでいたが、実は南斜面だった。ピッケルは間違いなく遺体の脇に刺した。その後、仮死状態だった清水さんが意識を取り戻し、斜面を登り返したが、今度は本当に地獄谷に滑落した。」

確かにつじつまは合いますが、滑落して衰弱した人が暴風雪の中、片足の登山靴で急斜面を登り返すことは簡単ではないと思います。

清水さんの滑落後、新浜サブリーダーら5名の行方がわからなくなりましたが、いったい彼らは何故いなくなり、その後どのように行動したのでしょうか。

猛吹雪で視界がなく、前の人がやっと見えるという状況ではメンバーがはぐれないようアンザイレン(各人をロープでつないだ状態で歩く)することがありますが、5名が行方不明になった当時、アンザイレンはしていなかったようです。(雪洞崩壊で装備を失ったため?)

そのような中で、何らかのアクシデントがあり、新浜サブリーダーら5名はパーティーを見失って、本隊とはぐれたのではないかと思われますが、これについても、前述の顧問が以下のような推理をしています。

「パーティーの並び順は、野呂リーダー、小林サブリーダー、田中さん、丸山さん、清水さん、池田さん、菊地リーダー田崎さん、山本さん、逢見さん、新浜サブリーダーだったが、旭岳山頂で池田さんが弱ったため、新浜サブリーダーが池田さんを介抱することにし、順番が、野呂リーダー、小林サブリーダー、田中さん、丸山さん、清水さん、池田さん、新浜サブリーダー、菊地リーダー、田崎さん、山本さん、逢見さんに変更された。山頂から下りる途中で、弱っている池田さんを介抱するために新浜サブリーダーが立ち止まったとすると、その後ろを歩いている4名も立ち止まることになるが、すぐ後ろの菊地リーダーは弱っていたので、惰性で追い越して行った。その結果、パーティーは前6名、後ろ5名に二分された。本隊を見失った後ろの5名は池田さんを吹きさらしから守るために雪洞に戻ったが、池田さん、田崎さんが倒れ、山本さん、逢見さんは滑落した。その後、新浜サブリーダーは本隊を追ったが南斜面で力尽きた。」

これらは、あくまでも推測とのことで、真相はわからないままです。

低体温症について

10名はすべて凍死(低体温症)で亡くなったとのことですが、低体温症について簡単におさらいしておきます。

  • 低体温症は体温によって、3段階に分かれます。
  • 軽度(35℃~32℃)では、体の震え、物忘れ、無気力、無関心、ろれつが回らない、よろける、眠くなるなどが起こり、風の当たらない場所に避難する、保温するなどを行い、回復後は登山を中止します。
  • 中等度(32℃~28℃)では、体の震えはなくなる、意識混濁、呼びかけに応じない、歩行困難、錯乱、幻覚、心拍数低下、呼吸数低下、不整脈、筋肉硬直などでが起こり、動かすと冷えた血液が循環し、かえって体温が下がったりします。急激に温めないようにして、それ以上体温が下がらないよう保温し、安静にして救助を待ちます。
  • 高度(28℃以下)では、心拍数低下、呼吸停止、心臓停止、瞳孔散大、筋肉硬直、昏睡、仮死などが起こります。(低体温症について、詳しくは「夏山遭難と低体温症~疲労凍死を防げ!」を読んでみて下さい。)



事故当時の天気図を見る

気象状況ついて、当時の天気図を見てみることにします。

昭和37年12月28日09:00(原典:気象庁 天気図、加工:国立情報学研究所 デジタル台風)

上の天気図は12月28日09:00のものです。

この日、A班は荒天のためベースキャンプ(BC)で1日停滞、B班はお昼前に天候が回復してきたので、C4からC5(白雲岳石室)まで進出しています。

北海道付近は、北海道の東方にある前線の影響がまだ残っていると思われますが、日本海にある高気圧が東進してきて、天気は徐々に回復するように思われます。

ですが、中国東北部に次の低気圧が控えており、好天は長くは続かないと予測できます。

なお、A,B両班共に、この日作成した天気図から、中国大陸にある低気圧の影響で、今後天気が悪くなると予測しています。

昭和37年12月29日09:00(原典:気象庁 天気図、加工:国立情報学研究所 デジタル台風)

上の天気図は12月29日09:00のものです。

この日、A,B両班は白雲岳で合流した後、悪天が予測されるので、旭岳石室まで下山する予定だったが、メンバーの体調等を考え、ベースキャンプ(C6)泊としました。

北海道付近は高気圧に覆われていますが、沿海州から朝鮮半島にかけて前線を伴った低気圧が3つあり、間もなく天気は荒れてくることが予想できます。

なお、パーティーはこの日の22時に作成した天気図から、この低気圧の接近を知り、以後の行動について翌朝の気象状況で判断をすることにします。

昭和37年12月30日09:00(原典:気象庁 天気図、加工:国立情報学研究所 デジタル台風)

上の天気図は12月30日09:00のものです。

この日、パーティーは猛烈な吹雪のため前進困難となり、C7(雪洞)でビバークしましたが、夜間、強風のため雪洞が崩壊し、遭難します。

前日の低気圧は発達し、前線が北海道にかかっています。

天気図からは北海道付近は南寄りの強風が吹いていたと思われます。

昭和37年12月30日21:00(原典:気象庁 天気図、加工:国立情報学研究所 デジタル台風)

上の天気図は12月30日21:00のものです。

雪洞が崩壊したのが20:00ですから、丁度その時間帯の天気図です。

北海道付近は低気圧が通過中ですが、沿海州方面から別の発達した低気圧が接近しており、等圧線も混んできています。日本付近は低気圧だらけと言った感じです。

天気図からは北海道付近は北西寄りの強風が吹いていたと思われます。

昭和37年12月31日09:00(原典:気象庁 天気図、加工:国立情報学研究所 デジタル台風)

上の天気図は12月31日のものです。

この日、雪洞を出発した後、猛吹雪の中で彷徨しながら脱落者や行方不明者が発生します。

低気圧はやっと東に抜けようとしています。



高層天気図で見る事故現場の気象

事故当時の現場の気象はどうだったのでしょうか。

実際の現場の観測値は地形などの影響を受けますので、誤差があるとは思いますが、高層天気図を見ればある程度推測することができます。

850hPa高層天気図 昭和37年12月30日21:00(原典:気象庁 天気図、加工:国立情報学研究所 デジタル台風)上の天気図は、12月30日21:00の850hPa高層天気図で、上空1500mの大気の状態を表したものです。

記号が見づらいですが、北海道付近は南~西南西の風が40ノット(風速20m/s)程度吹いているのがわかります。

気温ですが、北海道付近には3℃の等温線(破線が等温線)が通っていますが、北海道の西側にある等温線は非常に混み合っており、この後、急激に冷え込んだ状況がわかります。

風は上空ほど強くなり、気温は標高100m上がれば約0.6℃下がることを考えると、標高2200m付近では、天気図を見る限り、風速20m/s以上、気温はー1℃程度だったと推測されます。

現場では当初生暖かい風が吹き、22:00ころから風が冷たくなったとのことですが、状況は概ね合致します。

850hPa高層天気図 昭和37年12月31日21:00(原典:気象庁 天気図、加工:国立情報学研究所 デジタル台風)

上の天気図は、12月31日21:00の850hPa高層天気図です。

記号からは、北海道付近は西南西の風が15~30ノット(風速7.5~15m/s)程度吹いているのがわかります。

気温ですが、北海道付近にはー12℃の等温線が通っています。

標高2200m付近では、天気図を見る限り、風速7.5~15m/s以上、気温はー16℃程度だったと推測されます。

30日は強い南西寄りの風、31日は風はやや収まりましたが、急激に寒気が入ってきた様子がわかります。

吹雪は想像を絶する凄さ~事故があった同じ日に東大雪にいた人の話

当時、社会人山岳会で活動していた筆者の父は、この事故があった同じ日に、現場から約18km離れた東大雪山系石狩岳(1966m)を仲間2名と登山中でした。当時の山の様子について「吹雪は想像を絶する凄さだった」と言い、前を歩く仲間の足跡が吹雪であっという間に消えてしまうほどで、石狩岳直下で中止を決め、稜線をやっとのことで下山したと語っていました。函館学芸大の事故は行動中にラジオで知ったそうです。当時の気象状況がわかる、貴重な証言のひとつです。



事故は防げたのか?

気象判断は適切だったのか

天気の経過を見ると、29日には避難を完了していなければならなかったということがわかりますが、そのためには、前日の28日の天気図で判断しなければなりません。

28日は中国東北部に前線を伴った低気圧があり、低気圧のスピードにもよりますが、通常なら2日後くらいには影響が出ると考えますので、避難するなら翌日中が安全だと考えます。事実、野呂リーダーは翌29日に下山しようと考えていました。

29日に避難をしなかった理由については、28日の天気図からは低気圧がそんなに発達するとは予測ができなかったと思われること、仮に低気圧が直撃しても通過するまで何とか凌げるのではないかと憶断したことなどが考えられ、メンバーの体調不良などもあって、下山を強行しなかったのだと思います。

これについてですが、一般の登山者が、地上天気図のみを見て、低気圧の接近や通過を予測することはできますが、低気圧が発達するのかどうかを判断するのは容易な事ではなく、高層天気図などと組み合わせて判断するか、予想天気図を見るか、または可能であれば天気予報の気象解説を聞いて判断するかになると思います。

事故があった昭和37年は、ラジオ短波で「山岳気象解説」がスタートし、高層気象データを入手することが出来たと思われますが、放送は始まったばかりですし、当時、短波放送を受信できる携帯ラジオがあったのかどうかもわかりません。

山岳気象解説などの詳しい気象情報を聞けなかったとすれば、行動中に入手できる気象情報は、AMラジオ放送で日に3回放送されるNHK第2「気象通報」(放送を聞いて数時間前の地上天気図を作成します。予想天気図についての情報はありません。)しかなかったと思われます。

つまり、パーティーは28日の時点で、大陸にある低気圧が発達するのかどうかについて、正しく知るのは難しかったのではないかと思われます。

行動中に低気圧の接近を知った場合に、その低気圧が発達するのかどうかを知り得ないのであれば、とりあえずは、最悪の事態を想定し、安全に避難出来るような判断が求められると思います。

避難のタイミング

事故の直接の原因は雪洞の屋根が吹き飛び、逃げ場を失ったことだと思われます。

猛烈な吹雪、夜間であること、降雪で装備を失ったこと、高所であったことなどを考えると、雪洞が崩壊したあとは、どのような判断をしたとしても事故は防げなかったのではないかと思います。

では、丈夫な雪洞を作れば良かったということになりますが、報告書にある反省点では積雪は十分ではなく、また表層50cmが粉雪で吹き飛びやすく、斜面の傾斜が緩かったせいもあり、雪洞の屋根の下側(谷側)が薄くなっていたために暴風で屋根が崩壊したのではないかとあります。

それから言うと、雪洞の建設場所の選定が良くなかったと言えます。

では、事故当時、雪洞が絶対に崩壊しない場所を選定出来たのかどうかということになりますが、12月30日、C6(ベースキャンプ)を出発したあと、間宮岳~北海岳間の稜線の大きな雪庇に雪洞を掘ろうという案がありましたが、雪洞は尾根に発達した雪庇の安定した場所を利用して作る場合が多いので、もしかすると雪洞適地だったのかもしれません。

しかし、旭岳~後旭岳間のコルで沢から(南から)の猛烈な吹上げのために雪洞建設を断念した経緯を考えると、間宮~北海岳間も沢から吹き上げる南風によって雪洞には適さなかった可能性もあったのではないかと思います。

そうなると、風の影響がなく、積雪の十分なもっと別な場所に雪洞を建設することを考えれば良かったということになりますが、そう考えると、C6を出発したあとは雪洞適地を見つけられなかったわけですから、C6の出発前が、事故を防ぐための最後の判断になった可能性があります。

基本的に暴風雪を安全にやり過ごすためには、第一にはエスケープして下山してしまうことですが、それができなければ、標高の高い場所よりも標高が低い場所の方が風が弱くて気温も高いので、少しでも標高の低い場所への移動を考えます。

高所でも山小屋、石室などがあればそれらに避難するのも安全です。

それも無理な場合には高所であっても雪洞の建設を考えます。

時系列によれば、メンバーには少しでも目的地である旭岳石室に近づきたいという心理が働いていたようですが、C6からの距離を考えると、前述でも触れたように、一旦白雲岳石室に引き返して悪天をやり過ごすという選択肢の方が安全だったのではないかと思います。

このことは報告書にも反省点ということで記載があります。

北海岳周辺やお鉢平では暴風で歩行が困難でも白雲岳石室(現在の白雲岳避難小屋)周辺では何とか凌げるということが実際にあります。

暴風雪の中で白雲岳石室までたどり着けたかどうかという問題はありますが、旭岳石室まで一気に緊急下山できないのなら、結果論ですが白雲岳石室に避難するのが、安全策のひとつだったのではないかと考えられます。


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プロフィール

フリーランサー。元船員(航海士)
学生時代に山岳部チーフリーダーを経験し、阿寒、知床、大雪を中心に活動。
以来、北海道の山をオールシーズン、単独行にこだわり続け35年。
現在は主に日高山脈をフィールドにしている山オタクのライター。

※他サイトにおいて元山岳部部長を名乗る個人・団体が存在しますが、それらは当サイトとは一切関係ありませんのでご了承ください。



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